西表島の歴史と地名

 西表島にいつ頃から人が住み着いたのかは定かではありませんが、15世紀の朝鮮の古文書に初めて西表のことが登場します。それ以前にも人が住んでいた形跡が風葬跡などからうかがわれます。しかし、西表は大きな島ではあるものの、居住に適した場所が少ないのと風土病のマラリアが長らく人が住むことを拒んでいたようです。
 マラリアは今でこそ特効薬がありますが、昔はそれは恐ろしい病気で、マラリアのために廃村を繰り返した村も少なくありません。しかし、西表島は水が豊富なために稲作に最適な土地なので、隣の新城島や鳩間島の人たちがわざわざ西表まで稲を作りにやってきていたそうです。マラリアの恐怖のために定住できなかったのでそのようにしていたのです。第二次大戦後、マラリアは西表から撲滅されたとされ、西表はようやく人の安住できる地となっています。
 “いりおもて”というのは沖縄独特の読み方です。沖縄では、東西南北は、東が“あがり”、西が“いり”、南が“はい”、北が“にし”(ややこしいですが)といいます。従って西表を“いりおもて”と読むわけです。東と西は太陽が“上がって”、“入る”ところからきています。“いりおもて”の由来は、昔八重山の中心地であった石垣島や竹富島から見て西にあるからという説や、石垣島の最高峰である於茂登(ウムトゥ)岳と対比して西表の山々を西の於茂登というわけでイリウムトゥ→イリオモテとなったという説があります。確かに西表を正確に沖縄の発音で表記すれば“イリウムティ”なので後者の説に信憑性があるかも知れません。“イリウムティ”の発音は現地ではいろいろに転化して“イリムティ”とか“イルムティ”(いるもて荘ユースの語源)とか呼ばれるようです。
 なお、地名としての“西表”は西表島でいちばん古い部落である祖納のことを指し、竹富町字西表といえば祖納部落(星立を含む)のことになります。

 西表島での地名の読み方は、本土復帰後はほとんど内地読みにされていますが、実際の読み方はかなり違います。例えば、古見(こみ)、祖納(そない)、外離(そとばなれ)は、本来の読み方では、古見(くん)、祖納(すね)、外離(ふかぱなり)となります。ただ、現在でも本来の読み方が使われる後良川(しいらがわ)、越良川(くいらがわ)、由珍(ゆつん)、仲ノ御神島(なかのうがんじま)などの例もあります。
 西表島に現存する部落は、周回道路に沿って南から、豊原、大原、大富、古見、美原、船浦、上原、中野、住吉、浦内、星立(干立)、祖納(租納)、白浜となりそこで道路は途切れますが、その先に船浮、網取があります。このうち豊原から美原までを東部、それより西(北)の部落を総じて西部と呼びます。かつては東部と西部を結ぶ道がなく、同じ島でありながら船で行き来していたそうですが、1977年にようやく北岸道路が開通して東部と西部が結ばれました。
 西表の部落の中で最も古いのが祖納で、少なくとも14世紀頃から現在まで存続しているものと思われます。東部の古見も西表で最も古い時代にできたと言われますが、件のマラリアのために廃村を繰り返し、現在の集落は戦後に新たに入植した人たちによるものです。また、大富や住吉などのように組織的な移民(入植)によって創設された部落もあります。このように、現在の西表の部落はごく一部を除いて比較的新しいものばかりと言えます。
 カンピラ荘のある上原部落は西表で最も人口の多い部落で、20世紀の初めに一旦廃村となりましたが、その後鳩間島や沖縄各地からの入植があり、現在では西表一のにぎわいを見せています。
 なお、西表の部落名と行政上の地名が必ずしも正確に対応しない場合があるので注意が必要です。


西表島の概要に戻る
トップページに戻る